日々綴り

徒然なるままに、適当に

遅刻

 僕はよく遅刻する。仕事の締め切りやクライアント様に対しては、そりゃあ、真面目に守る。それは”命”であるからだ。自分の人生を送る為の信用がお金であるならば、仕事の信用は守らないといけない。

 それだけである。 

 

 一方、親しい友人との待ち合わせは、遅れてしまうことが多い。最近、友人も納得したらしく、自主的にカフェとかで待っていることがある。 

 「ごめん、15分ぐらい遅れるわ」と言ったとき、既にカフェにいるなんて言われて笑ってしまった。悪いと思いながら、自分を律する事が出来ない。なんとも碌でもない人である。 

 中学生のとき、「君は人間らしい」と言われた。宇宙人を改めたということではない。

 先生からも言われたが、同級生からも同じような感想を抱かれた。

 今思えば、人間の感情的な部分にしがみ付いて生きてきたような気がする。弱い人間達の時間的遠距離の中で。ひたすらに揺蕩うように。 

  

 カフェで待つ僕の友人も、実はよく遅れる。 

 その友人も遅れるから、僕もそんなに気にしていないのだろうか。そんな気がする。

 

 僕は時間を大切にしている方だと思う。

 「何言ってんだこいつ」と思うのは正しい。 

 でも、少々待ってくれと言いたい。

 

 それは他人と共有する時間というより、個人的な時間のほうであるからということなのだ。 

 バスを待つ時間、映画を観るときに待つ時間。 

 暇な時間というのは非常に勿体ないなと感じる。なので、僕は本を持ち歩いている。SNSをみるのもいいが、辞めてしまったので、本になった。 

 ある程度の大きさのバックを買って、何でも入れられるぐらいの気持ちでそれを使用するようにしている。

 実際に入るのは、それ程でもない量ではあるが。その大きいかどうかわからない鞄の中に本を入れている。(厳密には傷つかないように小袋の中に入れてある。)そこから、取り出し、読む。

 その繰り返しだ。 

 

 相手が遅刻してきて怒るということをよく耳にする。

 僕からしてみると、そこまで張り詰めて疲れない? と聞いてみたい。残念ながら、真面目な人ほど、気難しいし、社会に対してのストレスというのは大きそうだ。

 実のところ、自分の時間を無駄にされたという嫌悪感が存在しているのではないかと思っている。 

 だから、僕は本を常に持つことをオススメしたい。

 本はある程度値段が張る。でも、値段以上の価値と副次的効果を齎してくれる。それに、とても良い時間つぶしになる事まちがいない。 

 まあ、僕は本より、モラルを持つべきかもしれないが……。 

背伸びしたブラックコーヒー。

今週のお題「懐かしいもの」

 

 あの苦さは二度と忘れない。 

 高校生のときだった。イキってブラックコーヒーに手を出した。 

 前週に友人と賭けをして、負けたやつがジュースを奢るという話になった。皆いいよといって、誰が負けるだろうと意気揚々としていた。 

 

 そのうちのひとりが、(kという)が結局負けた。僕と同じやつに賭けたのだが、一人のほうが面白いという安直な理由でじゃんけんをすることになった。そして、じゃんけんで僕が勝ってしまった。

 というか、そんなもので勝ち負けを決めていいのかと驚きはしたが、まあ、僕が勝ったのだと肩を荷を下した。そう思った。思うことにした。 

 彼が負けたから、僕たちは約束通り奢ってもらった。僕以外の二人は160円のジュースをそれぞれ買ったが、僕は120円のブラックコーヒーにした。なぜかわからない。彼の出費を抑えたかったのか、それとも、ある種の社会に対しての小さな小さなミジンコ以下の反抗であり、苦い大人の味というものに憧れた、謎の憧憬なのか。

 今ではそんな風に思うが、そんなことより当時は背伸びのほうが幾分大切だった。 

 僕は苦虫を噛み潰したような顔をしながら飲んだ。

 

 すると、それをみたkはこういった。 

 「それ美味い? 美味しそうには見えないんだけど。もう一本、別の買えば? 僕は奢らないけどさ。俺が罰ゲームなはずだろ、もう君が罰ゲーム受けてるじゃん」 

 「まあ、確かにそうなんだけど。イキってみたかったんだよ。大人がなんでこれを飲んでいるのか理解に苦しむんだけど」僕は茹蛸のような顔をしていたに違いない。 

 

 他のやつらは笑っていたが、彼だけは笑わなかった。猜疑心を抱いているかのような目をこちらに向けるだけで、笑っていなかった。正確には笑っていた。

 だが、それは愛想笑いであり、僕に対しての本気の笑いというわけではないようだった。 

 そのkは真面目だった。真面目というか、生真面目すぎるともいえる。

 先生に反抗するときも、真正面から反抗する。しかも、正論で論破してしまうから、幾分質が悪い。 

 

 あるとき、僕は先生と喧嘩した。入学して数日で、僕は興奮冷めやらぬ勢いでバスにのり登校していた。そりゃ、自分のお気に入りのヘッドフォンであるならばワクワクするものだ。僕の高校はスマホを持って行っても問題無かった。学校の中で、電源を入れなければ大丈夫という、そんな校則だった。そんな中、僕はヘッドフォンを持って行っていた。小遣いで買った安いヘッドフォンである。Bluetooth接続できる2000円ほどのヘッドフォンは青色で少し派手だった。安っぽさを自己主張し、時間がいくらあろうと主張し続けているような、そんな風に。僕の手にあるシルバーピンクのiPhone8plusには少しアンバランスで、入学したての人間関係にシーソーのように傾く、そんな僕にはちょうどいい塩梅だった。 

 その派手なヘッドフォンをある体育教師が見たときだ。

 その時に先生は怒った。 

 

 「そんなもの学校に持ってくるものではない。もう少し、派手じゃない、黒色や灰色にしなさい。そちらの方が好ましい」 

 

 そういった先生に対して、僕はたじろきながらも応答した。 

 

 「色なんて関係ないでしょう。学校は勉強するところであって、これといってこのヘッドフォンにたいして有効な校則も特にないでしょう」 

 

 数千円したこのヘッドフォンを別のやつに変えるとなると、お金を損した感じになってしまって、嫌だと思った。それだけはひたすらに避けたい。そうやっていうと、先生は烈火の如く怒りはじめた。なんだと、ちょっとこい。ああ、また叱られるんだなあと思ったとき。 

 

 kは言った。 

 

 「校則のなかに、そんなヘッドフォンに関しての校則はありません。風紀を乱すと書いてありますが、まず、風紀とは何でしょうか。それから教えて頂きたく存じます」

 真顔(まさに真面目そうな顔)でそういうと、先生は答えられなかった。

 ほわほわした、概念というより感想を述べた。それは何ですか? と問いの答えに関して何回も問うものだから、先生も最後のほうは答えられなくなった。 

 

 どちらかというと、僕より随分と先生の方が気の毒だった。同情した。大人になって教師となり、ある程度、歳がいったときにバス停で生徒から論破される。辛い、あまりに、辛い。

 その後はというと他の先生がフォローに入り、その場は丸く収まった。いや、ある程度は角ばっていたかもしれないが。 

 彼は僕の中でソクラテスとなった。いつか裁判で死刑宣告されそうだなと思いながら、その場を僕は後にした。 

 

 そこから数日たったとき、彼は僕の隣にいた。 

 普通に友人となった。

 多少ひねくれた(僕からするとだが)彼は僕からするとある意味、面白い存在だった。ホームズをみるワトソンのような気分だったのかもしれない。 

 彼は理系分野が好きか、得意なのか、というとそうでもないらしい。

 現代文と英語と世界史という何とも文系まっしぐら。理系科目は苦手なのに論理的思考はずば抜けて、得意なようだった。

 数学はなぜ苦手なのかと聞くと、別に将来使う気がしないという至極真っ当な理由で忌避しているだけだった。だが、赤点を回避するどころか、いつも、どれも平均点以上という彼は凄く優秀であった。

 

 僕は勉強は苦手だ。面白くないし、興味が持てなかった。 

 それより友人達とカラオケにいったり、ゲームをしたり、はたまた中学生のときの友人達と遊ぶ方が楽しかった。

 僕はどれも平均点、まさに可もなく不可もなしだった。英語と数学、世界史の三科目が学年で上位5%ほどだったが、俗にいう五教科以外の他科目はなんというか全滅だった。

 特に実技が苦手で、体育なんて自分で終末感を見出したほどだった。神と神の衝突で今にでもこの授業消えさんねーかな、終わんねぇかなと思ったほどである。それほどまでに、あまりに、終わっていた。長距離なんて走れたもんじゃない。 

 彼は運動もできた。それに加え、ある程度顔つきもよかった。 

 なのに、女子に関して凄く嫌悪感を持っていて、常に光より影に巣くう妖怪のようなやつだった。 

 頭がよく、運動が出来て、イケメン。優良物件もいいところ。なのに、彼女はつくる気はないといった。そこ代われと言いたくなる。そんな男だった。 女性関係に何かトラウマがあるのだろうと思った僕は、特に聞かなかった。人間には聞かれたいことより、聞かれたくないことの方が多いはずだ。

 

 あれから六年が経った、ある日。

 そんな彼からLINEが届いた。彼のLINEの名前をソクラテスにしている僕は「ソクラテスじゃん」と思って恐る恐る通知を開けてみた。六年間連絡が無い、そんな友人から写真で連絡があるとびっくりするものだ。

 壺要らないか? と連絡してくるんじゃないかと、そんな不思議な行動に訝った。驚きながら見てみると、彼は普通に生活をしていた。 

 

 国家公務員となり、税務署で働いているようだ。 

 しかも、職場の同期と彼女を作り、生活しているようだで本当に幸せそうだった。写真をみてみると笑顔も笑顔で、ブラックコーヒーのときの笑顔とは違って見えた。心から笑っていた。

 なにか、この六年で彼の救う何かが起こったのかもしれない。 

 是非、幸せになってほしい。そうおもう。

 

 あの時のブラックコーヒーは何だったのだろうか。今でもよくわからない。でも、少し背伸びしたのは確かだ。大人の景色に憧憬したのも事実だろう。

 でも、ある程度、大人になった僕はブラックコーヒーを飲むようになった。あの苦みが今では美味しく感じる。

 社会の苦さを少し経験した僕たちは少しだけ、アンバランスな成長を遂げ、ブラックコーヒーを飲めるような人になったのかもしれない。

 

 いや、そうおもいたい。

過去のこと

 過去のことを書き起こそうとすると、自分の浅はかさや、当時の幼稚な激情が表面化してあまりに嫌になる。 

 

 これといって不幸はない。

 だが、ある程度の路銀は支払った。

 

 これから、よくなっていくのだろうか。そう思いたい。

 

 だけど、ひたすらに、そうは思えない。

 

 自分の中で、「理想は自分でつかむものだ」と「理想は運だから仕方ないよ」という感情が拮抗している。

 いっその事、結託してくれないか。お前ら二人で僕の衆議院選挙を占拠してくれ。

 

 そっちの方が、幾分、楽なようで気が晴れる。 

 

 

 グラデーションな自分が嫌になる。揺れ動く、メトロノームのように一定のリズムで、BPMが高いながら、低いながら、それなりのリズムで人生を送れないものか。

 これすら自分を保護しようとする言い訳なのだろうか。

 

 拒否反応すら、言い訳になるなら、アレルギーということにしてくれないか。 

 

 社会性のアレルギーなのだ。こんなしょうもない人間なのだから。 

 

 それとも社会のほうが、アレルギーなのか。 

 

 それもそうか、こんなしょうもない人間なのだから。

 

 いくらの人生、幾らの路銀で買えるのか。その免罪符は。

ゲームで学んだこと

お題「ゲームで学んだこと」

 

 まず、僕はゲームが大好きです。異常なほどにね。いろいろなRPGゲーム、FPSゲームをやってきたけれども、学べたことは山ほどあります。

 

 やったことない人は「ゲームなんて、学べるものはない。遊びじゃないか」という人も居るだろうけど、僕はそんなことはないと思うのです。 遊びの中から物事を学ぶというのは、人間の本質でもあると思うからです。

 

 もう一つの理由はどんなものでも経験として、また、知識として吸収することはできるから。

 幼子の頃、躓いて転倒したりして怪我をする。そこから、ここは危ないんだなと学んで対応していく、それが遊びの中から学ぶという意味じゃないですかね。

 その反省を旨に新しい遊びを考える。それすらも学びです。

  

 確かに、僕はなにか、人とは変わっている人はいるかもしれないですが、その遊びに関しては一理あると思います。

 

 悪くとも、この世には反面教師という言葉があります。悪いものからでも、良いものからでも、学べることはあるのです。 

 

 ゲームが児戯だとしても、僕は学んでいます。 

 

 例えばモンスターハンター 

 

 モンハンでは諦めない心を学びました。友人に誘われて、初めてのモンスターハンターを買いました。

 

 MHW:IBではアルバトリオンを倒すのに30回以上は戦いました。トリのミラボレアスでは、最低70回は乙り、心が折れかけました。スラッシュアックスで漸く倒しました。

 

 あまりに死ぬのに、僕が普通に何もなくクエストにいくものだから、一緒にやっていた友人が呆れたのか「流石だな」と言ったほどです。聞いたときは、もう、笑っちゃいました。あまりに、冷静な彼がいうと、嫌味に聞こえるんですよね。それで笑っちゃいました。

  

 戦っていたときは、諦めなければどうにかなる。ゲームのプログラム如きに負けていられない。それが僕の思いでした。というか、意地です。

 

 するとクリアした際、当時、プレイヤー上位5%ほどになっていたことが分かりました。試行錯誤し、上手く修正すれば何も問題がないという点ですね。その努力がしっかりビジョンとして合っているのであれば、その努力も報われるという意味でしょう。 

 

 次に生態学、解剖学です。 

 

 骨格や骨格筋などに興味を持ち、生態などにも興味を示しました。世界観(その環境)に即した生態環境のすばらしさや、アカムトルムのような骨格から派生する、飛竜種骨格。

 独自の科学的根拠と独特の世界観、確かな「なにか」の存在があの面白さと作っていたのだと理解したとき、仰天するように、天を仰いだほどです。 

 

 そして、現実にも素晴らしい地球環境が眠っているということに気付きました。

 その僕も素晴らしい生態系の一部の生物に変わりないんだろうなと。盲目的に信じていたものが無くなって、新しい視点で物をみるようになりました。 

  

 RPGでは発想や、物語の作り方、感情の起伏、世界観の作り方などいろいろ学びました。というより、身に付いたが正しそうです。 

 

 仕事でアイデアが山ほど浮かんでくるのは、ゲームで培われたせいかもしれません。

   

 どれだけ美しい虚構を作り上げることができるのか、というのがクリエイティブに対しての永遠の問いだと思うのですが。それがなかなか出来るわけではありません。

 ゲームをやればやるほど、クリエイターたちの凄さに感嘆します。 

  

 サウンドボックスゲームの王道、マインクラフト。実は小学4年生からやっています。

 いま21歳ですから、もう11年ほどやっていることになりますね。 

 最初は適当に遊んでいました。しかも、全然周りに知られたゲームではなかったです。少量のお金で買ってからというもの、瞬く間にハマりました。 

 

 ですが、やっていくうちに、赤石(レッドストーン)に興味を得ることになりました。疑似的な電気回路を作れるのですが、僕からすると、何ができるというのかわからないという状況でした。

 それからというもの、Youtubeで調べ、自動ドアとか、農場とかを作ってみているうちに、いろいろできるようになるようになりました。

 単純なOR、ANDなど、いろいろありますが、ある程度の回路装置なら自作できるようになったのです。

 動画で紹介されている回路すら慣れていけば、どれも楽になりました。 動画で実況者の人達が独自に作る回路すらも容易に理解ができるようになった。

 

 模倣から、独自性が生まれると知った(感じた)のは、この時です。

 

 それから数年経つと僕はコンピュータに興味を持ちました。10歳ごろ、個人用のコンピュータをせがんで買ってもらいました。5万ほどだったと思います。

 

 それにマイクラを入れると、バニラでは耐えきれなくなり、いつの間にかMODに興味を示しました。

 友人とやるときはサーバーが必要になるし、MODのダウンロードや整理など、ディレクトリの操作などコンピュータに関する知識を仕入れる事が出来ました。

 

 現代人として得したなと思っています。 

  

 これすら元々ゲームから得た経験なので、馬鹿にできませんよね? 今では少々のプログラムなら書けるようになったのです。

 

 今、デジタルの人材を得なければならないと、皆(社会)は必死なようですが、正直、お金を投入し、従来同様の教育するだけというのは、未来の人材は育たないように感じます。

 ただの、情報という受験教科の傀儡になる未来しか見えません。でも、好きな人が増えるのはいいことですね。イノベーションが生まれやすいのかと言えば、否でしょうが。

 でも、いい事には変わりないと思います。闇夜に月あかりがスッと差し込んだように、ITインフラの教育が育ってない僕たちには必要な教育です。

 

 子供のころ、勉強しなさいと言われて嫌な事をしたでしょうか? 

 

 しなかったですよね? 

 少なくとも僕はしませんでした。 

 

 勉強ができるようになったら、好きになるのは当然なのです。自分の成長がみえるんですからね。ドラクエでずっとスライムばっか倒していたら、退屈するじゃないですか。

 それと同じです。 

 好きなことを学べば(感じれば)、必然的に必要な技能は、知識が必要で、そのためには勉学が必要となってきます。

 そうすると自分の得意なことすら理解できるようになる。

 そこからは自分の好きな道に行くのは好きにすればいいのです。 それを実感した時がありました。

  

 従兄の子供にゲームが大好きな子がいました。その子は勉強より、圧倒的にゲームが大好き。僕の幼少期にそっくりの子でした。 

 

 その子と正月にあった際、将来の夢はあるのかと聞いてみると将来はゲーム開発(ゲームクリエイターになりたい)をしたいというものだから 

 

 「作っている人達(その子が好きなゲームを開発している会社)はいい大学を出ているんだ。日本で有数の頭の良さなんだ。日本人の上位20%にはならないといけないかな? それでないと、○○君が好きなゲームは作りづらいんだ。その他諸々、大人の事情も含むだろうけどね。学歴というのは、ある意味ボーダー(物差し)だよ。僕は此処まで頑張って、自分を信じて来れましたっていうね。そして、その中で得た知識、経験は他には得難いものだよ」 

 

 こう言ってみました。そういうと彼は「そうなんだ」といった。 ただ、納得し、頷いた。

 それから、勉強を頑張るようになったそうだ。

 マジかとおもって、聞いてみたらホントの様でした。

 

 びっくりしました。 

 

 「好き」という感情は此処まで有用性を持っているのかと。

 確かに、人生の相棒を決めるのも、彼女(彼氏)ができるのも、好きという感情でしたね。(まあ、LOVEとLIKEというのはありますけどね。) 

 

 だから、僕はこう思うのでしょうかね。

 大企業の人達ですら、5年ほどの見通しなのに子供に二十年間の勉強をしていれば、二十年後、はたまた、30年後楽できるよというのは、酷だと。

 

 このように、面白ささえ教えれば、夢中になるものなんですから。

 

 僕もこの種類でした。19点の数学のテストが98点に変わるのは、いつの間にか僕の望む人生には勉強が必要になってしまったと気が付いたからです。 

 

 

 ゲームから学んだことというのは、多くあります。 

 失敗したときのアプローチの変え方、コミュニケーション、思考能力の偉大さ、どのように交渉すれば親からお小遣いが貰えるのかとかね。 

 

 最近では、ゲームは大衆総合芸術(オペラのようなもの)と言っていい物ではないかとさえ、思えてしまいます。 

 

 デスストランディング (DEATH STRANDING)については、あれはもう芸術でしょう。 

 

 安部公房は僕の好きな作家のひとりなのですが、小島さんも好きそうですね。ゲーム最初のオープニングのとき、安部公房の言葉が出てきたはずです。あれは衝撃を受けました。 

 ゲーム内に笑えるネタもいっぱいあるし、美しい自然と人工物の分布が自然である故か、独自の世界観の素晴らしさも引き立ちます。

 そして、なにより、ストーリーが素晴らしい。

 素晴らしい。

 破壊というより、繋げるというのは、独自的な視点ですし、配達人というゲームは今までなかったでしょう。 

 

 小島さんの世界観と倫理観が引き立つ、芸術作品。彼はゲーム界のボッティチェリか、ミケランジェロでしょう。 

  

 そのようなゲームがあるのもいいし、おっぱいボン、ウェストキュッ、ケツプリのようなモノがあっていいと思うのです。 

 

 芸術は自由であり、作者が多様な世界観を持っているから、新しいイノベーションを生んでいけると思います。 

 

 なにも、一つの作品をレインボーにしなくても、それぞれが色を持ち、それを放っていれば一つの色の蛍より幾分、綺麗でしょう。もっと、世界はもっと綺麗なレインボーフラッグになる。そう思います。 

 今のポリコレに関して思うことですがね。 

 

 まあ、これぐらいにして、終わりますか。 

 いつまでも書けるなこれ、駄目だ。 

 

 いろいろなものが学べる。それがゲームだと思います。 

 

路銀ほどの苦しみでささくれちまった、この僕に聴く音楽。

お題「この曲、心がささくれてる時に聴くと良いよ!」

 

 僕はまだまだ若い21歳です。実に若者です。まだ世界を知らずに、ずっと机上の知識にすがり、救済を望んでいます。 

 そんな青臭い若者にも、ある種の絶望というものは、団体様でやってくるものです。高校受験の失敗、大学受験の失敗、進学し鬱で中退。なんとも、幾千山千の大人からしてみると軽い絶望でしょう。

 でも、当の本人からしてみると、絶望には等しいものです。黒色は黒なのです。彩度が異なるだけだ。今まで、自分の中にあった何かが、スッと消え去る。というか、ぽっきり折れる。そんな風に思えてしまうのです。それまでの全能感やハッキリとした自信は無くなります。 

 

 本当にささくれのようなもので、小さいものでも激痛を伴う傷というものはあるのでしょう。 

 

 そんななか、僕は音楽に救われました。 

 amazarashi。 

 それが僕の神の名前です。僕はもう信者になってしまいました。Twitch配信を見ていて、その人が「いい曲だよ、聴いてみてよ」といったのが始まりです。 

 鬱になり、風呂には入れず、部屋のベッドで籠る毎日。買い物に行くときなんて、お酒がないと駄目なときもありました。気分はさながら、屠所の羊。そんななか、支えてくれたのがamazarashiでした。「フィロソフィー」、「ジュブナイル」、「未来になれなかったあの夜に」、「令和二年」、「カシオピア係留所」など名曲ばかり。 

 

 今でも、死んでしまいたい、消えてしまいたい。この世のすべてが敵にみえる。と思うことだって多々あります。だが、僕が死んでしまったら、僕のような苦しむ人の人生まで否定しているかのようで、堪らなくなり、死ぬのを辞めるということをしていました。この雨を防げるものがあれば、欲しい。 

 

 誰かは言うのです。止まない雨はないよと。

 

 天国に行ったときに、ある人達に言ってみて欲しい。

 

 アウシュビッツの人達に言ってみて欲しい。

 地動説によって非難を受けた、ガリレオにも言ってほしい。

 

 この世の苦しみに塗れた、全人類に言ってみて欲しい。

 止まない雨はないよと。

 

 黒は黒だ。透明でも、赤でもない。黒だ。準備をしていないと、真っ黒に汚れてしまう。

 僕は声を大にして言おう。その傘をくれと。黒くならないように藻掻くからと。

 全人類、歴史も含め時間に制限されない、愛のような合羽を着たいものだとひたすらに多分、号哭するでしょう。

 

 社会にも希望をもてない。停滞期と後退期に差し掛かった、このタイタニック号は乗っていていいものなのか、それとも浮かびながらか、沈みながら、工事をするべきなのかすら、答えもでません。いや、答えはでているのだけど、誰もやろうとしないというのが正しいかもですね。 そして、僕もその一人。

 

 そんなことは置いといて。 

 

 それ程までに追い込まれているときに、知ったのがamazarashiでした。 

 

 救われた。ささくれが大きくなり、心が壊死しているようなときには、スッと効くでしょう。ドストエフスキーの長ったらしい苦悩表現さえ、僕にとってはジェネリック医薬品でした。 

 

 そんなときは、amazarashiおすすめですよ。 

 

 そして一つだけ言いたいことがあります。今絶望している人に向けて。 

 

 絶望は団体様でやってきます。ゴールデンウイークの観光地のようにです。世の中の人たちはこう言います。いつか夜は明けると。でも実は開けない夜もあります。ある人は、止まない雨はないというでしょう。でも実は雨やまない夜もあるんです。 

 

 でもね。のんびりしておいたら、問題ないですよ。人生長いですからね。いい人生を送るために、路銀ほど苦しみを払っているんですよ。

 

 雨曝しになりながらでも、休みましょう。

 大きな鳥だって羽を休んでから、飛ぶじゃないですか。

 ですから、焦らずに、自分のペースでしか、できないですよ。

 他人なんてほっといっていいですよ。自分の人生に責任取ってくれないですから。 

 

 だって、自分ですからね。 

 

 そして、落ち着いたとき、支えてくれた人が居たら感謝してください。ひたすらに。

 

 「あの時はありがとう。支えてくれて、助かったよ」と。 

 

 それだけで、貴方を愛している人は、嬉しいはずです。

 

 「愛」って文字になる前、絵のときは、人がこちらを振り向いている様子だったようです。

 誰かを思えたら、愛なんですね。

 大事にしてください。 

 

 ありがとう。これで、音楽に救われた僕のように、救われる人がいっぱい居るはずです。

 そして、ありがとうはこの社会には要るはずです。 

  

 それと、ここまで読んでくれてありがとうございました。すこしでも、参考になれば幸いです。若輩者の言葉ですが。 

最近購入した本について

サカナクションの山口一郎さんの本

 最近、サカナクションにハマった。もともと、好きなバンドだったが、そこまで強烈で熱狂的なファンというわけではなかった。 

 

 僕は二ッチなバンドが好きだ。二ッチというほど、ファンが少ないわけではないが、例えばamazarashi。 

 

 詩とリズムが僕にはスッと入ってくる。独特な、汚いと言ったら失礼だろうが、声で伝えるメッセージは、心に響いてくる。詩はどちらかというと暗めと評価を受けるだろう。だが、僕には明るく感じる。背中にゆっくり手を置かれるように。 

 

 では、サカナクションはどうだろうか。 

 ロックでありながら、テクノミュージックを源流とし、確かな実力を謳いファンを獲得。そして、一部の人に響く歌詞を歌っている。山口さんの声で。 

 

 高校の時の友人が、サカナクションを非常に好きなのだ。尋常ではない。正直、異常と言って差し支えないだろう。それに関して、一、僕が話すと十、返答がくる。どれだけ好きなんだよと言いたくなる。 

 

 新譜についても、非常に詳しい。彼はしっかりアルバムごと聞くタイプだ。すべて聞いてから、そのアルバムの出来を僕に話す。 

 

 詳しくない僕は「そうなんだ」と頷くことしか出来ない。 

 

 そんな僕は、あるとき、アイデンティティという曲を聴いた。革命だった。アイデンティティというものを、うまく表現しているように感じた。女の子が好きな事も、凡庸な質問すらも自分の一部だと言っているように感じた。そんなあなたでいいのだと。 

 選ぶ必要はない、もう自分に選ばれている人生を自分で歩んでいるのだと。そう思えた。何故か、涙が出た。 

 しかも、止まらなかった。あんなに泣いたのは久しぶりだった。 

 

 それからというもの、僕は聴き漁った。 

 アルクアラウンド、モス、プリトーなど、僕にとってのお気に入り作品がいっぱいできた。まだまだ、ニワカもいいところだろうが、これからも沼っていきたい。 

 

 素晴らしい音楽を奏でる、サカナクション 

 すると単純な疑問が出てきた。それは、パーソナリティを知りたいという欲求だ。

 

 彼の哲学的な部分や訓練していたとき、彼はどのような思考をしていたのだろうか。ミュージシャンの原風景を覗きたくなった。この世が、どんな風に思えているのか、嵐か凪なのか。それとも、また別の何かか。 

 

 僕は楽しみだった。Amazonで2冊で4000円ほどだった。意外と高いが、そんなものだ。だって、詩集だから。装丁から、しっかり著者の拘りが感じる。デザイン性が高い。ある種の聖櫃といってもいいような、銀色に黒のメタリック。それから、YIと書かれたロゴマーク 

 

 読んでみると、短い文章が少しあるだけである。自分の裸体を白昼堂々見せているような、そんな具合い、真ん中に堂々と5行ほどだった。右上の日付けを見てみると、書いている期間は長く、まばらな月日だ。一部の休息期があり、活動期がある。(メモを編纂されているのだろうけど、まばらに書いている) 

 

 その生活の最中で、山口さんが感じた、社会や音楽、それと対立り、また一部で溶け混ざり合うかのような自分との対比、その雲のような事象に対して、まさに自分自身の為に訴えかけているかのような、そんな雰囲気。 

 

 文体は軽めだ。 

 

 だからか、僕はスッと飲み込めた。ごっくんと。 

 

 まだ途中までしか読んでいない。全部読んでみて、感じようと思う。理解できなくとも、他の人の言葉に触れることは、確かな人間性を醸成してくれると思うから。 

僕は此処で書いてます。

お題「ブログは何処で書いている?」

 

此処です。

僕の書斎とデスク周り

 汚いのは勘弁してください。すみません…。

 

 

 僕は此処で書いています。 

 

 僕の書斎のデスクです。朝起きて大体1時間半から2時間、筆を執ります。正確には、キーボードを叩きます。

 

 もともと、文章を書くのは得意ではないのですが、書いてしまいます。高校や中学の小論文なんて大嫌いでした。でも、数年前から自分の為の雑文なら幾らでも書けてしまう、謎の病にかかってしまったので、毎日何かを書いています。 

 

 いろいろなサイトを放浪しながら、書いています。些か浪人の様ですね。

 最初は、はてなblogだったのですが、noteやライブドアブログなど、いろいろ回りました。ですが、やはり、はてなblogが一番良かった気がします。年齢層やその人のパーソナリティーがしっかり認識できるというのは、非常に大きなものでした。

 そして、何より、サイト全体の雰囲気が大好きです。 

 

 やっと、最近になって、少しずつですがマウスやキーボードを揃えています。僕にとってのいい物を探して、ずっと使っています。 

 例えばコーヒーカップRealforceのキーボード。Logcoolのトラックボールマウス。頂いた万年筆。値段1500円、枚数100枚の少し高めのA4ノート。 

 僕の病において、この出費は治療費ですね。もうちょっとしたら、はてなブログproに入ってもいいかなとも思っています。

 

 だって、楽しいですからね。 

 

 では、改めて。 

  

 僕は此処で書いています。静かな書斎のデスクで。 

 

 僕はここで書いています。この「はてなブログ」で。