日々綴り

徒然なるままに、適当に

人間の言葉をSNSで話す熊と何かを考える梅雨入り

 猟友会というのはなんとも、難しいものだなと思う。マタギがいないというのは、これ程までに厳しいものかと。

 熊はその点、成功している。Twitter(現:x)で有用かどうかはわからずとも、呟いている。

「熊がかわいそう」「食べに来ているだけだから」「田舎から人が居なくなればいいじゃない」と言っている。なんとも、最近のクマは喋るのかと吃驚したものだ。

 人間からしてみれば、いや、僕からしてみれば熊は熊なのだから、人間の命を優先したくなるものだと思う。Twitterのクマさんからすると、そうでもないのだろう。

 冗談はさて置いて。

 彼らのような人らは、凄く良い人であると思う。短絡的という人達もいるだろうが、そんな純粋な人も居ていいではないか。僕は好きだ。実際にあってみると、多分だが優しい人ばかりだろう。博愛精神は素晴らしいものだ。僕には持ち合わせていないものである。

 僕はできるだけ、人間にとっていい世界を望む。

 僕がニワトリだったら、朝起きて卵を産むか、メスとの交尾を安全に行える環境を望むだろう。ニワトリらしく生きたい。ブロイラーにはなりたくない。それだけは勘弁願いたい。

 でも、人間だから人間を軸に考えてしまう。

 環境を変化させるのは僕らとビーバーだけらしい。つまり、環境を変えられるということは、生態系すらも変えられるということだろう。僕たちの好きなように生態系をリメイクできるということだ。もっと具体例を上げれば、個体数が減少中の動物たちも救えるということだ。こんな生物は宇宙には多数いるかもしれないが、この太陽系では僕らだけだろう。

 人間に有用な動物は増え、人間に関係ない動物は減っている。いつの日か、鳥のさえずりの音色すら少なくなるかもしれない。

 だが、僕たち人間は勝てる時に勝ってきた。慈悲など無意味というぐらいの精神性で。今は人間と言われている同じ人間にすら、人らしく扱い始めたのは、人類史からみてもここ最近だ。個人、村、都市、国。そして、世界。科学の発展と見るに稀な僕らの頭脳は、これらへと影響を与えていった。それを取り巻く環境や、生物の営み、また、人間の営みすらも。

 一枚岩ではない僕らは一生懸命、その社会性という仮面をかぶり、生きてきた。とてつもなく発展してきた。

 そしていま、僕たちはこれまで気にかけないで生きてきた環境を凝視するようになった。

 

利権にまみれ、お金を欲する人。

 

新しい教育を始める政府。

 

矢面に立つ青年活動家。

 

暴れる環境活動家。

 

否定的な面々。

 

肯定的な人々。

 

俯瞰を選ぶ人。

 

そして、僕。

 

それと貴方。

 

 僕たちの環境は生態系の多様性の中に存在する一部分なのだろう。この素晴らしい世界を後世にも残したいと欲する人は多いだろうなと思う。

 だが、夏休みの宿題と同じだ。

 一気にやろうとすると不備ができる。

 疲れる。

 

 ゆっくり足取りを揃え、できることを見つめていく事が大事なことだといえる。

 荒唐無稽な熊の方便ではない。

 ストーンヘンジにペンキを塗る。

 

 そんなことでもない。

 大事なことは、論理的な思考とアプローチを含めた手法で、夢を実行し叶えることだ。

 そして、その夢と方法は皆に誇れるような、アンチにすら胸を張って言えるものでなくてはならない。

 夢想家の現実主義者が必要なのだ。

 それならば協力したいと思えるようなことでないと、人間が持っている本来の団結力は引き出せないだろう。

 自分の心が拒むならしなくてもいい。だが、疑問に思う、または、少し、気に引っかかる。

 そう思うなら、絶対に足掻くべきだ。調べてみて、考えるだけでも、心にそっと置いておくだけでも、幾分マシな世界になるはずだ。

 人類史という主人公の僕たちはある章の登場人物だろう。ならば、次につなげる為に、僕たちは素晴らしい環境、体制を、世界を次の主人公に遺さないとだめだ。

 これをみて「フッ、また、馬鹿なことを言っているバカが居る」と思う人がいてもいい。

 だが、純粋な理想事を言えない世の中なんて、だいぶ腐っている。子供が煩く笑い。老人がベッドで死ねる。なんと幸せな世界か。なんだかんだ問題は山積みだが、諦めず、足掻くことが大切だ。そこに生まれる問題や倫理観が、新しい僕たちを生むことになる。

 少なくとも小学五年生だった、あのときの僕は言えるはずだ。夏休みの宿題を八月三十一日にやって全部終わらせたから。

 

 正道を歩く人間がいてもいいし、邪道を行く人がいてもいい。

 

 陰は唯一光の理解者なのだから。

 

 これから、僕はどちらをどう進むだろうか。死んだ祖父母に胸を張って死ねるまで、生きられるだろうか。

 なにかして、偉大かどうかと決めるのは赤の他人の歴史家だろう。

 

 この世界で足掻いて、死ねたら。御の字だ。

 そう思った。夏の日だった。