日々綴り

徒然なるままに、適当に

人間の言葉をSNSで話す熊と何かを考える梅雨入り

 猟友会というのはなんとも、難しいものだなと思う。マタギがいないというのは、これ程までに厳しいものかと。

 熊はその点、成功している。Twitter(現:x)で有用かどうかはわからずとも、呟いている。

「熊がかわいそう」「食べに来ているだけだから」「田舎から人が居なくなればいいじゃない」と言っている。なんとも、最近のクマは喋るのかと吃驚したものだ。

 人間からしてみれば、いや、僕からしてみれば熊は熊なのだから、人間の命を優先したくなるものだと思う。Twitterのクマさんからすると、そうでもないのだろう。

 冗談はさて置いて。

 彼らのような人らは、凄く良い人であると思う。短絡的という人達もいるだろうが、そんな純粋な人も居ていいではないか。僕は好きだ。実際にあってみると、多分だが優しい人ばかりだろう。博愛精神は素晴らしいものだ。僕には持ち合わせていないものである。

 僕はできるだけ、人間にとっていい世界を望む。

 僕がニワトリだったら、朝起きて卵を産むか、メスとの交尾を安全に行える環境を望むだろう。ニワトリらしく生きたい。ブロイラーにはなりたくない。それだけは勘弁願いたい。

 でも、人間だから人間を軸に考えてしまう。

 環境を変化させるのは僕らとビーバーだけらしい。つまり、環境を変えられるということは、生態系すらも変えられるということだろう。僕たちの好きなように生態系をリメイクできるということだ。もっと具体例を上げれば、個体数が減少中の動物たちも救えるということだ。こんな生物は宇宙には多数いるかもしれないが、この太陽系では僕らだけだろう。

 人間に有用な動物は増え、人間に関係ない動物は減っている。いつの日か、鳥のさえずりの音色すら少なくなるかもしれない。

 だが、僕たち人間は勝てる時に勝ってきた。慈悲など無意味というぐらいの精神性で。今は人間と言われている同じ人間にすら、人らしく扱い始めたのは、人類史からみてもここ最近だ。個人、村、都市、国。そして、世界。科学の発展と見るに稀な僕らの頭脳は、これらへと影響を与えていった。それを取り巻く環境や、生物の営み、また、人間の営みすらも。

 一枚岩ではない僕らは一生懸命、その社会性という仮面をかぶり、生きてきた。とてつもなく発展してきた。

 そしていま、僕たちはこれまで気にかけないで生きてきた環境を凝視するようになった。

 

利権にまみれ、お金を欲する人。

 

新しい教育を始める政府。

 

矢面に立つ青年活動家。

 

暴れる環境活動家。

 

否定的な面々。

 

肯定的な人々。

 

俯瞰を選ぶ人。

 

そして、僕。

 

それと貴方。

 

 僕たちの環境は生態系の多様性の中に存在する一部分なのだろう。この素晴らしい世界を後世にも残したいと欲する人は多いだろうなと思う。

 だが、夏休みの宿題と同じだ。

 一気にやろうとすると不備ができる。

 疲れる。

 

 ゆっくり足取りを揃え、できることを見つめていく事が大事なことだといえる。

 荒唐無稽な熊の方便ではない。

 ストーンヘンジにペンキを塗る。

 

 そんなことでもない。

 大事なことは、論理的な思考とアプローチを含めた手法で、夢を実行し叶えることだ。

 そして、その夢と方法は皆に誇れるような、アンチにすら胸を張って言えるものでなくてはならない。

 夢想家の現実主義者が必要なのだ。

 それならば協力したいと思えるようなことでないと、人間が持っている本来の団結力は引き出せないだろう。

 自分の心が拒むならしなくてもいい。だが、疑問に思う、または、少し、気に引っかかる。

 そう思うなら、絶対に足掻くべきだ。調べてみて、考えるだけでも、心にそっと置いておくだけでも、幾分マシな世界になるはずだ。

 人類史という主人公の僕たちはある章の登場人物だろう。ならば、次につなげる為に、僕たちは素晴らしい環境、体制を、世界を次の主人公に遺さないとだめだ。

 これをみて「フッ、また、馬鹿なことを言っているバカが居る」と思う人がいてもいい。

 だが、純粋な理想事を言えない世の中なんて、だいぶ腐っている。子供が煩く笑い。老人がベッドで死ねる。なんと幸せな世界か。なんだかんだ問題は山積みだが、諦めず、足掻くことが大切だ。そこに生まれる問題や倫理観が、新しい僕たちを生むことになる。

 少なくとも小学五年生だった、あのときの僕は言えるはずだ。夏休みの宿題を八月三十一日にやって全部終わらせたから。

 

 正道を歩く人間がいてもいいし、邪道を行く人がいてもいい。

 

 陰は唯一光の理解者なのだから。

 

 これから、僕はどちらをどう進むだろうか。死んだ祖父母に胸を張って死ねるまで、生きられるだろうか。

 なにかして、偉大かどうかと決めるのは赤の他人の歴史家だろう。

 

 この世界で足掻いて、死ねたら。御の字だ。

 そう思った。夏の日だった。

カキフライカレーと在る友人

 最近カレー屋に行った。某有名カレーチェーン店である。僕はそこまで店で食べるカレーが好きではない。いや、苦手だ。

 いつも、のんびりと気分で作り始め、のんびりと食べる。それが僕の中のカレーなのだ。ある意味、カレーを作るというそれすら、その儀式的なものに消化している。

 だから、あんな風に営業されているお店に行ったことはなかった。実際には、行ったことはあるが、片手で数える程であった。

 じゃあ、何故行ったのか。それは友人の父親がその店の店長だった。というのと、カキフライが乘ったカレーがあったということだ。

 その店長の子は僕にとって、気の置けない友人の一人である。

 数年話していなかったが、今年の年初め、偶然共通の友人が話をかけて飲みの場を設けてくれた。会ったら相も変わらぬ言い振りで、僕好みだった。

 だから、僕は彼のことを考えて、その店に入ろうとした。無理はしないでと彼は言ったが、まあ、何だかんだ。興味が湧いた。

 

 そのカキフライに。

 

 カキフライが大好きな僕はいつまで経っても、出てこない店のカキフライは嫌いなのだ。いけ好かない。全く持って納得ができない。以前、東京のある店で45分ほど待たされた挙げ句、そのカキフライはべっとりしていて、不味かった。それから、あの類の店は信用していない。

 ある程度は、待ってもいい。でも、僕はできるだけ早く出てきて欲しい。ただの欲望魔である。大概な理由があるというのはわかっているが、遅いのだけは勘弁願いたい。

 そう思いながら、座った。

 最近はタブレットで注文するのだそうで、カウンターにある眼の前の型落ちiPadを手に取った。カキフライを多く、ご飯を少し少なめにして、辛さは控えめに。お酒は頼まず、水をカートに入れた。

 店員さんと話すのも苦手なので、個人的には有難い。そんなことを思いながら、注文のUIを押した。

 坂口安吾の「暗い青春」をバッグから取り出す。読みながら、待っていた。煙草を吸わない僕は外にある、喫煙室に行く必要性もない。のんびりとまっていた。カキフライ。サッㇰと感じる音と、スッと消える苦み。

 そればかり感じて、暗い青春の内容は一切、入ってこなかった。脳では彼の青春より、僕のカキフライへの関心のほうが占拠していた。

 いざついてみると、待つ時間も少なく済んだ。5分ほどである。

 しっかり揚がっていたし、中はシットリとしていた。口にいれると、苦みというより、旨味の宝庫であった。オイスターソースが出来上がる意味がよく分かる。やはり、牡蠣。牡蠣なのだ。牡蠣しか勝たん。食感といい、辛さといい。カレーの辛いのが苦手な僕には丁度よい。牡蠣で緩和されて、主張もしてくる。しかも、牡蠣のサイズも丁度カキフライで食べやすいサイズ感だ。気分は上々。そのサイズ感のお陰で、牡蠣がカレーを引き立てる。カレーがあくまでも主役であって、僕は脇役ですよーといっている。

 カレーをお店で頼んだのは久しぶりだった。カレー屋さんに入るのは、僕のこれまでの人生で経験不足だ。

 これほどまで美味かったかなと首を傾げ、自分の不足さに憤りを感じた。カキフライとカレーの相性は最高だった。

 だからこそ、深く感じたのだ。何事も経験だなと深く思った。

 サービスも最高だった。

 その後、その友人と話した。僕は彼に感想を言った。「美味しかったよ。また、利用させてくれたら、嬉しいな」

 彼は思いっきりこういった。

 

「うちのカレーはここで一番うまい」と。

僕の氏神様のような曲たち

お題「自分にとってお守りのような曲5選」

 

 5曲選べといわれると少し、困ってしまいます。

 好きな楽曲が多数ある僕からすれば身を切る思いです。(皆も同じことだと思いますが)ですが、苦心して、これかなと選びました。

 

 まず、お守りという定義を自分で作りました。その定義は「感情が落ち着くもの」という、この一点のみです。この曲を聴くと落ち着き、スッと嫌なことを忘れられるといったものです。ですから、他の人からすると「え?」と喫驚の声をあげるかもしれません。お許しください。

 

 では、参りましょう。

 

 こちらの5曲です。

 

 1.古いSF映画‐amazarashi

 2.さよならはエモーション‐サカナクション

 3.地球儀‐米津玄師

 4.ひとりぼっち東京‐結束バンド

 5.花になって‐緑黄色社会

 

 重要度といった具合ではなく、単純に思いついた順番ということでお願いします。

 

 古いSF映画は最後の部分が好きです。

 

 「昨日の夜遅くテレビで やっていた映画を見たんだね

不安になるのは分かるけれど フィクションはあくまでフィクション

この先どうなるかなんて そんなこと僕に聞かないで

答えは君自身が見つけて 僕は名も無いアンドロイド」

 

この詩は僕にとって、ある意味の決心と言っていいものになりました。

苦しい現実を目の当りにしても、自分で主義を取捨選択することが大切であるということ学んだのです。この“僕は提起をしただけで、これを選ぶのはあなた次第”といった具合の詩が大好きです。

 

 

 高速道路や道路を走っているときによく聞いている、「さよならはエモーション」。

 サカナクションといえば僕にとっては「新宝島」でした。それを当時聴いたとき、僕はポピュラーミュージックに纏う雰囲気が得意ではなかったので、嫌っていました。単純ですね。それから数年が経って、先日、友人がサカナクションを好きだと知り、もう一回聴いてみようと思って、そこからハマったのです。「アイデンティティ」を聴いたとき、本当にビビッときました。なぜか泣き、成人済み男性とは思えないような咽び泣き方でした。

 

 それから数日がたったとき、僕の大好きなサカナクションの曲がちらほら出てきました。そのときの曲が「さよならはエモーション」でした。そのときのエモーションに今も取り憑かれています。

 

 地球儀は言うまでもなく、米津玄師さんの作品であり、宮崎駿さんの作品「君たちはどう生きるか」の主題歌です。あの映画は僕にとって多くの恩恵を頂いた映画になりました。人生の行先に悩んでいたとき、あの映画を見ました。どうしようかなと日々生きていたとき、ある生き方が見出されました。見出した、そのモノは僕の錯覚かもしれませんが、それでも、生きる為の道標になりました。ほんとに見に行ってよかった。そして、聴いてよかった。

 

 今では朝起きてコーヒーを入れながら、聴くようになりました。

 

 東京という僕にとって挫折の街で思ったことを、そのまま書いているかのような詩で、僕に刺さりました。陰キャで静か過ぎる僕には、東京というキラキラした世界のドロドロの闇は僕にとって、毒になったのです。

 

 そのときの絶望は二度と体験したくない。

 コロナという疫病の蔓延度と日々の移り変わりの速さ、そして、人間の敵を作る早さは目を見張る物がありました。普通に生活しているだけでも、敵ができるのに、朝敵の如くのそれらは僕には耐えきれなかったのでしょう。

 

 挫折し、黒く染まり、折れた僕がみた「ぼっち・ざ・ろっく!」はあまりに綺麗で、自分たちのために音楽をする彼女たちが美しい宝石のように感じました。

 そのまま咲きたいと思うのは人間の性なのかもしれません。「花になって」は緑黄色社会さんの曲です。

 

 初めて聴いたとき、感動しました。自己愛を説いた曲なのでしょうが、恋愛感情のような詩を主にして、こちら(マオマオ)に対して話しているかのようで、素晴らしい。

 

 それに独特のリズムとザ・J-ROCKといった感じの旋律は僕にモロささりでした。

 

 自己肯定感が低いなと思っている人は絶対に聴いてみるべきだと思います。最高ですよ。そのままでいいと言ってくれているようで、こっちまで救われます。

 

 これぐらいでどうでしょうか。

 

 パッと思いついたこの5選。参考になれば幸いです。

 

 

8000字の自問自答と夏の日の幸せ

 思ったことや考えた事をワードにつらつら書いていた。 

 あるとき、今までの人生にあった出来事を洗いざらい書いておこうと思い立った。ワードを開け、いざ書いてみる。そうすると僕の人生は苦難の連続のように感じる。運がないように。まるでどこかの物語の主人公のようにだ。 

 そして、ガチャの失敗のように環境を恨み。あのときの自分が被った、あの絶望は僕にとっての最大値を植え付け、根を張る。悲しげな顔なのにつつがなく過ぎていく、あの日達にグッバイと言えるようにと、ひたすらに書いていった。 

 そうして、ある程度(8000字ほど)書いていくと、僕の人生は幸福に満ちていた。 

 満月を見て美しいといって、新月をみてキレイだねと言うように。それぞれの悪徳極まりない日常も、楽しかった思い出も、涙した絶望も全て、にべもなく言ってくる。聖厳な眼差しで「あなたの日常は平和も平和。苦なんてありません。運がいいのですよ」と微笑むどころか、睨んでくる。

 こちとら全力だ、この野郎。来世は蚊にでもなれってか? と嫌味を言いたくなる。 

 そして、前半の絶望の最大値が路銀ほどに感じる。

 いや、感じてしまう。でも、それを否定したい自分もいる。他の人に比べると自分は......と。でも、僕にとっては最大値なのだ。でも。でも。何時まで経っても回帰し続ける。永遠に太陽を回り墜ちる地球の如く、回帰する。

 弁証法は機能せず、ソクラテスを恨むだけしかない。そんなふうに。 

 

 そんななか、それを受け入れることで、自分すらも幸運だと思えるようになった。 

 

 こうやって、文字を打つことができるレベルの教育を受けられたこと。そして、家族への感謝、社会への感謝が健かに溢れてきた。 

 21歳。若輩者極まりない、その若造は感謝することしか、するべきことがなかった。何も成せていない自分と周りに迷惑を掛けまくった自分。それが1Kの部屋で同居して、消えることはない。

 「すみません、これから貢献したいと思います。すみません。誰かを幸せに、僕も幸せになるように頑張りますので、どうかよろしくお願いします。傲慢ですみません」

 と言う他にない。なかった。 

 そんなふうに出し切ると、灰汁が取れたような綺麗な気持ちになれた。

 今日は父の日らしい。幼い頃にあげたあの肩たたき券はもうないだろう。また肩たたき券をあげようか。

 

 いや、普通の日に数分揉めば良いのだろうが。 

 

 また明日、目を覚ます。そして、床に就けるのも幸運である。

 

 そう思う。

 

 初夏であった。

人といるのが好き? それとも一人が好き?

お題「人といるのが好き?1人が好き?」

 

 

 冒頭にこんなことは書きたくないが、実のところ、僕は人が苦手である。語弊があるかもしれないが一応、ここで言い切っておくことにする。 

 特に「人間らしい人」が苦手だ。明るく、人のテリトリーにズカズカとは言ってくる人は特に苦手だった。 

 もう一つ、例えば「すぐ泣く子」や「すぐ怒る子」だ。 

 つまり“感情的な人”、いや、“感情的な奴”である。僕はこいつらが大嫌いだった。ゆったり優しく、のんびりと生きられないのかと心底思うのだ。 

 人間らしいといえば聞こえはいいが、動物的といえば蔑称に近しいが。 

 そいつらのことを僕は大人(大人になったといっても青二才に毛が生えた程度ではあるが)になった今でも苦手である。嫌いというと嫌な気分になるので、「苦手」ということにしておきたい。 

 苦手だった。

 そう、苦手だったのだ。 

 

 一応書いておくが、だからといって僕が学生時代、静かだったのかといわれるとそうでもない。当時のクラスメイトや先生に聞けば十中八九「あいつは五月蠅かった。動物の様だった」と言われるとおもう。近しい友人ではない。クラスメイト全員からである。ここでは決して「動物的」と言ってほしくない。できれば、人間らしいと言って欲しい。 

 

 僕は人間だからだ。 

 

 その「人間らしい」学生時代のときだって、いつの間にか同級生から距離を取っていた。明るいキャラを演じつつ本当の自分は曝け出さないといった具合に。本当は根暗なのに。それをひたすらに水面下に隠していた。氷山のように上だけがポジティブで暗化、海の中はネガティブであった。でも、あとには引けないものだから、プカプカと浮いていた。 

 

 人間を嫌っているのか、嫌われているのか。それすらもグラデーションで、自分にすらわからない。 

 

 実は今もそうだ。僕も人間だから急に性格を変えろと言われても不可能だ。危機感を持てと言われても、この社会に言われたところで持てるはずもない。 

 

 僕にとって親友といえる友人は居るが、数週間に一回ディスコードというアプリで連絡を取るぐらい。実際に会うなんて、そんな滅多なことはないといっていい。 

 

 そう、会わない親友。それでいいのか僕。僕の傍に立って、自分すら幽体離脱してそう言いたくなる。 

 

 でも、この通話の頻度を上げてみたことがある。その時は幾分過ごしづらいものになった。 

 

 あるとき、新作のゲームや雑談をしようと話になった。そのときは乗り気だった僕はすぐレスポンスを行った。いいよと一言である。その一言が地獄の幕開けだったということに気づくのは週末だった。その約一週間、予定を取って暮らした。最初は良かった。気の置けない友人達と一緒に深夜雑談をするというのは楽しいものだ。だが、週末に差し掛かるときには僕の精神衛生は最悪といっていい具合になっていた。  

 

 人と距離を取って、一人でいたい。絶対に関わってほしくない。そんな状態に陥った。酷い時には全て敵にみえたのだ。いいニュースも、悪いニュースも関係なく、僕の耳に届いたものは全て関数的に変化し、悪感情に呑み込まれた。 

 

 その時に気づいた。 

 

 僕はできるだけ人と関わらず、傍から人間の社会生活を覗いていたい。そんな人なのだと。鎖国の期間とwelcomeの期間があるのだと。僕は自分自身のその感覚に気づくまで幾分長くかかった。 

 

 今では本と映画と少しのゲームで精神衛生は保たれている。本当に有難い事だ。朝起きて本を読み、昼頃ゲームをし、また本を読む。幸せである。 

 

 孤独は自由であるとも言える。自分が孤独になりたいというなら、問題ないだろう。何かを成すには、または、何かをするには孤独が最高の薬になるのだ。 

 

 でも、肝に銘じてほしい。 

 薬物は使用方法を間違うと困ったことになる。社会復帰ができなくなったり、後遺症が残ったりだ。薬物乱用ダメ絶対。 

 

 そして、お題の回答だが。 

 

 こんな事を書く人が「人といるのが好き」そんな訳がないので、安心して欲しい。貴方が読んでくれたなかで犇々と感じる、そのオーラは多分正しい。 

お金の使い方と世界の解像度

 お金をどう使うのか。それは永遠に答えが無い問題に思えてしまいます。だって、個人的なものですから。つまり経済環境は個人的なものである為に、自分で財布の構成を握らないといけないという点ですね。簡単にいうと、自分で自分のケツを持ちなさいということです。 

 では、そんな大口をたたく人間はどのようにお金を使い生活しているのか。僕の哲学というかルール(軸)があるので、それを紹介していきたいと思います。 

 

 地球にも地軸があるように、また住んでいる地域で時間や季節が変わるように、それぞれ軸は持っているべきものです。 そして、これを読んでいる人の好きな事は何でしょうか、とても気になります。

 

 なので、少しだけ参考になれば幸いです。 

 

 その軸とはなにか。 

 

 それは自分の好きな方にお金を使うということ。 

 

 僕の場合ですが、ファッションなどの興味のないものは一旦置いておくという行動をとります。 

 

 僕の服は夏、冬合わせて小さな(高さ80cm)タンス2つのみです。この中に年中の服が入っています。長袖長ズボン、半袖半ズボン。それぞれ7着同じようなものが入っていて、下着、靴下などはホントに少なめです。 

 

 何故か興味がないのです。というより、興味が無くなったといったほうが正しいかもしれませんね。 

 

 高校生のときだったと思います。これじゃあ駄目かもと思い、試しにユニクロに行きコートを買いに行きました。 

 

 そして後日、コートを着て友人に会うと笑われたのです。 

 

 そこから「あんまり変わんねーな」と切り替えて、気にしないようにしています。つまり、興味の無い事は一切気にしないということです。 

 

 僕が他人を気にしないように、街中にいる人たちはあまり、自分を見ていないでしょう。当然ですがニュースの背景に流れる交差点の人と何ら変わりはないと思います。なので、身だしなみをしっかりしていれば問題ないというのが僕の考え方です。ファッションが好きな人はいいんですよ? 僕はそちらの才能はないですし、好きでもないですから、美しいオシャレな恰好している人は、本当に尊敬します。 

 

 ですが、僕みたいな別の欲求のほうが強い人は気にした方がいいかも知れません。

 

 自分の命を削って稼いだお金を自分と同じぐらい大事なものでなきゃ、使っていられませんから。当然ですね。 

 

 僕の場合、内向的な性格ですし、一人で過ごすのが好きな人です。窓辺で本を読んだり、家で映画を観たり、のんびりゲームしたり。 

 

 興味がある映画が公開されたときは一人でよく観ます。ですが、田舎なもので映画を観に行くことですら100km離れたところにしかありません。そこまで車で運転して観に行くなんて、一人が好きでないとできない芸当だと思います。 

 

 なので、自分の機嫌を取るために、自分がよく使っているゲームやオフィス関係のデバイス、小説などの本にお金をかけたいのです。ですから、興味がなくQOLが上昇せず、気分もよくならないというものにはお金をかけないようにしています。 

 

 完全に自分軸ですね。 

 お金における自分軸と言ってもいいのではないでしょうか。 

 

 このお金を使って、自分の機嫌を取るという考え方(自分軸)は少ないのではないのでしょうか。少なくとも僕の周りには少ないように感じます。若年層ということもありそうですが。 

 

 僕の知り合いの水産会社を経営されている社長さんに聞くと「お金持ちになった人のなかには、自分の世間体を気にして、興味の無い事にお金を使う人がいる。好きな事や物に使えばいいのに。例えば興味ないのにポルシェを買うとかね? 可笑しいと思わないか」と仰っていました。 

 

 僕はある程度(完璧に近しいが)自分軸で動きます。ですから、世間体とか知りません。 

 

 自分の人生で一回しかないのに、他人を気にして生きる。 

 

 それが比較的に経済的自由を手に入れた人が多いお金持ちですら、自分の好きな事や興味のあることに投資するというサイクルを上手く回す事ができていない人も一定数居るということです。 

 

 得意な事と好きな事にお金と時間をかければ、自分の周りも好転していくでしょう。そうすれば自分すら好転していくのですから。 

 

 自分が好きな事を辞めない。何があっても続けるということはとても難しい。だからこそ、尊い行為だと思います。 

 

 この自分の好きな事にお金を使ってみるということを諦めないで欲しい。それが、できなさそうであるならば、少し現状を見直しながら分割的に考えてみることをオススメします。 

 

 誰だって明日死んでもいいと思って、生きていたい。 

 

 そう思いますから。 

猫という可愛すぎる生物とシステム的救済

 猫というのはあまりに可愛い。僕が大好きな生物です。家族として迎えたことはありませんが、いつの日か迎えてみたいなとも思います。

 ですが、ある程度、裕福な方が幸せかと思うので、できるだけ迎えないようにしています。責任もありますからね。 

 家でのんびり一人で仕事できるようになったときに迎えようかなと思います。 

  

 古代エジプトでも愛されていたようですが、当時の人達のわからない訳がないですね。

 

 全力で同意しました。

 

 あれは可愛いもの、あまりにも。「かわいいもんね!」と思っていたら、実は穀物を食べるネズミを対処するために飼っていたということらしいので「かわいさとかじゃないんだ。でも、そっか、飯食えないか食えるかの時代だもんな」と思った次第です。なんとも、平和ボケしています。 

 

 平和ボケというより、隣の家の人が野良猫を手懐けていて正直、迷惑です。

 ノミやダニが寄生し、猫に餌をあげるために、その家の前の公園が猫のたまり場になり、子供達が遊べないという状況になっています。

 命に関わるなら、責任とれやと思います。 

 

 最近では地域猫というものがあるらしいです。あんな感じでできるのであれば、WINWINかもしれませんね。

 そして、社会問題をシステムで問題を解決した成功例のひとつだと思います。そういう記事をみると、感心してしまいます。 

 

 思考した能力、施行した実力、試行で終わらなかった気力。 

 

 そのような事例のどれをみても素晴らしいなと思いながら、一般的になることを期待しています。いつもながら、あれ程に可愛い生物たちが人間の身勝手さで殺されるのは惨すぎて、実に考えたくもないことです。 

 

 可愛さのなかに内包する責任を、僕たちはあまりにも、考えない。その責任をみたふりをして、カーテンで隠している。 

 

 これは僕たちは考えないといけないフェーズになったとも言えそうです。他の命たちに関して。

 

 生態系の命のなかで生きているということを考えないと駄目かもしれませんね。 

 

 でも、猫は可愛い。それは僕にとって事実なようです。