冒頭にこんなことは書きたくないが、実のところ、僕は人が苦手である。語弊があるかもしれないが一応、ここで言い切っておくことにする。
特に「人間らしい人」が苦手だ。明るく、人のテリトリーにズカズカとは言ってくる人は特に苦手だった。
もう一つ、例えば「すぐ泣く子」や「すぐ怒る子」だ。
つまり“感情的な人”、いや、“感情的な奴”である。僕はこいつらが大嫌いだった。ゆったり優しく、のんびりと生きられないのかと心底思うのだ。
人間らしいといえば聞こえはいいが、動物的といえば蔑称に近しいが。
そいつらのことを僕は大人(大人になったといっても青二才に毛が生えた程度ではあるが)になった今でも苦手である。嫌いというと嫌な気分になるので、「苦手」ということにしておきたい。
苦手だった。
そう、苦手だったのだ。
一応書いておくが、だからといって僕が学生時代、静かだったのかといわれるとそうでもない。当時のクラスメイトや先生に聞けば十中八九「あいつは五月蠅かった。動物の様だった」と言われるとおもう。近しい友人ではない。クラスメイト全員からである。ここでは決して「動物的」と言ってほしくない。できれば、人間らしいと言って欲しい。
僕は人間だからだ。
その「人間らしい」学生時代のときだって、いつの間にか同級生から距離を取っていた。明るいキャラを演じつつ本当の自分は曝け出さないといった具合に。本当は根暗なのに。それをひたすらに水面下に隠していた。氷山のように上だけがポジティブで暗化、海の中はネガティブであった。でも、あとには引けないものだから、プカプカと浮いていた。
人間を嫌っているのか、嫌われているのか。それすらもグラデーションで、自分にすらわからない。
実は今もそうだ。僕も人間だから急に性格を変えろと言われても不可能だ。危機感を持てと言われても、この社会に言われたところで持てるはずもない。
僕にとって親友といえる友人は居るが、数週間に一回ディスコードというアプリで連絡を取るぐらい。実際に会うなんて、そんな滅多なことはないといっていい。
そう、会わない親友。それでいいのか僕。僕の傍に立って、自分すら幽体離脱してそう言いたくなる。
でも、この通話の頻度を上げてみたことがある。その時は幾分過ごしづらいものになった。
あるとき、新作のゲームや雑談をしようと話になった。そのときは乗り気だった僕はすぐレスポンスを行った。いいよと一言である。その一言が地獄の幕開けだったということに気づくのは週末だった。その約一週間、予定を取って暮らした。最初は良かった。気の置けない友人達と一緒に深夜雑談をするというのは楽しいものだ。だが、週末に差し掛かるときには僕の精神衛生は最悪といっていい具合になっていた。
人と距離を取って、一人でいたい。絶対に関わってほしくない。そんな状態に陥った。酷い時には全て敵にみえたのだ。いいニュースも、悪いニュースも関係なく、僕の耳に届いたものは全て関数的に変化し、悪感情に呑み込まれた。
その時に気づいた。
僕はできるだけ人と関わらず、傍から人間の社会生活を覗いていたい。そんな人なのだと。鎖国の期間とwelcomeの期間があるのだと。僕は自分自身のその感覚に気づくまで幾分長くかかった。
今では本と映画と少しのゲームで精神衛生は保たれている。本当に有難い事だ。朝起きて本を読み、昼頃ゲームをし、また本を読む。幸せである。
孤独は自由であるとも言える。自分が孤独になりたいというなら、問題ないだろう。何かを成すには、または、何かをするには孤独が最高の薬になるのだ。
でも、肝に銘じてほしい。
薬物は使用方法を間違うと困ったことになる。社会復帰ができなくなったり、後遺症が残ったりだ。薬物乱用ダメ絶対。
そして、お題の回答だが。
こんな事を書く人が「人といるのが好き」そんな訳がないので、安心して欲しい。貴方が読んでくれたなかで犇々と感じる、そのオーラは多分正しい。